以下、文章は国府公民館 地域探訪資料より出典
大正年間の初め、日枝神社境内の地中から、偶然、塔の中心礎石である巨石が発見されました。
ここに古代寺院が存在していたことがわかり、「山王廃寺」と呼ばれるようになりました。
その後、石製鴟尾・根巻石・緑 水差・わん・皿・銅わん・塑像の小仏頭などが相次いで発見され、まれにみる豪壮かつ華麗
な古代寺院であることがわかりました。
でも、伽藍配置や規模はわかっていませんでした。そのため、昭和49年から七回にわたる発掘調査が行われました。
その結果・・・・・
□ 塔跡の北方一町の位置に、僧坊あるいは食堂と推定される建築遺構
□ 出土瓦の検討から、創建の時期は七世紀後半。他方廃絶の時期は天仁元年(1108)の浅間山噴火との関係から、
浅間山噴火の少し前頃と推定されるようになりました。
□ 多数の文字瓦の中に『放光寺』と箆書き。高崎市山名町所在の特別史跡「山ノ上碑」の文中に「放光寺」があり
山王廃寺は本来、放光寺と呼ばれていたろうことがわかってきました。
□ 寺院建築前に、当時の一般的な住居は竪穴式住居を主としていたこの地には住宅や倉庫と考えられる掘立柱建物が
建ち並んでいた。
大和の法隆寺は、もともと聖徳太子の斑鳩宮、また川原寺の下は天武天皇の川原宮と推定される遺構がある。
そんな事例から、ここで発見
された掘立柱の建物群は総社古墳群にかかわる有力者の居住城の可能性が大きい。
山王廃寺跡の礎石が残る日枝神社と伽藍配置図
以下、掲図・写真は前橋市教育委員会事務局文化財保護課発行 山王廃寺跡より出典
山王廃寺、塔礎石(石材加工の技術がすばらしい)
根巻き石(右側の写真は鴟尾と根巻き石)
塔礎石と根巻石の概念図
以下、掲図・写真は前橋市教育委員会事務局文化財保護課発行 山王廃寺跡より出典
鴟尾(しび)
山王廃寺石製鴟尾(右側の参考写真は唐招提寺の鴟尾)
右側の写真は前橋市教育委員会事務局文化財保護課発行 山王廃寺跡より出典
以下掲載の石製鴟尾は山王廃寺から北東方向にある五千石用水路沿い、都丸氏宅に展示されている。
この鴟尾は山王廃寺の建物に使われたと考えられます。
死日
世界遺産上野三碑の一つである山ノ上碑(高崎市山名町所在)に放光寺僧と記載がされている
山王廃寺跡から、放光寺と箆書き瓦の出土により山ノ上碑の碑文中の放光寺が山王廃寺=放光寺という学説なっている。
以下、掲図・写真は前橋市教育委員会事務局文化財保護課発行 山王廃寺跡より出典
以下、山王廃寺北方建物群の発掘調査で発見された円筒埴輪の出土状況(昭和52年頃に撮影)