上野国印
以下、文章は国府公民館 地域探訪資料より出典
−まだ、正確の位置は確定されていない古代群馬の中心地−
国名 両毛地方はもともとケヌのクニ(毛野国)と呼んでいたらしい。「国造本記」の下毛国造の条に
『下毛野国造。難波高朝(仁徳)御世、元毛野国分為上下、豊城命四孫奈良別、初暘国造』とあり、仁徳天皇の時代
(五世紀頃半ばころ)に、毛野国をわけて、主として渡瀬川以西を上毛野(現在の群馬県)東の下毛野(栃木県)
としたとある。
その後、奈良時代に入って「続日本書記」和銅六年(713)の条に『畿内七道の諸国郡郷の名は好字を著けよ』とあり
上毛野国は ¨ 毛を除いて ¨ 上野国と書き、¨ こうずけのくに ¨ と呼ぶようになった。
大化の改新の詔 (646)により、律令政治が行われるようになった。諸国には中央から国司が任命され、
政庁としの国府(国衛)がおかれ、各郡に郡司が郡庁(郡衛)で政治を行うようになった。最初の国司は田口朝臣益人
(和銅元年)で、平群朝臣安麻呂、大伴宿禰伯麻呂、藤原朝臣小黒麻呂らの名が出てくる。手野国は初めは上国であったが、
弘仁二年(811)大国になり、天長三年(826)国守に親王を任じた。大国としての国衛の役人は、
守(かみ)・介(すけ)各一人、擾(じょう)は大擾・少擾各一人、目(さかん)も大目・少目一人、史生(ししょう)
五人であった。
上野国の郡と郷 十世紀頃に成立したとされる『和名類聚抄』によって、その概要を知ることが出来る。
畿内と東北地方を結ぶ官道整備
東山道とは、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野・陸奥・出羽と通じる
地域とその交通路を指す。「延喜式」兵部省には、上野国内の宿駅として
『坂本+五疋、野後、群馬、佐位、新田+十疋』
と五駅をあげており、さらに伝馬として『碓氷、群馬、佐位、新田五疋』とみえている。
坂本は旧松井田町に坂本の地名が残っており、野後は安中市付近で野尻の地名が残っている。
群馬駅は前橋市元総社付近が当てられていて、佐位駅は伊勢崎市上植木付近、
新田駅は旧新田町の一之井付近とみられる。
上野国の国府
国庁(こくちょう)→「国司」という都から来た役人が儀式や政治を行う中心的な役割を担った中枢施設。
まだ、その位置が確定されていません。
国衛(こくが)→国庁の周囲に設けられた国の行政事務を行った役所群。
国衛の範囲や国衛の周囲の様子も、まだ解っていません。
国府(こくふ)→国庁、国衛を含めた役所に勤務していた役人の館や、兵士などの宿舎、市、学校、農民の家など
を含む範囲全体。
鳥羽遺跡の神社の建物跡、元総社小学校で発見された堀立柱の大型建築遺構、
まっすぐ延びる堀の跡等が点々と出現しています。
昭和三十六年〜四十一年にかけて
総社神社、国分寺、付近の地名、条里制などの遺構の存在から前橋市元総社
から大友町にかけての地域ではないかと推定し、大がかりな発掘調査が行われました。しかし、
住居跡や堀立柱遺構などをもつ建築遺構などは見つかりましたが、国府の政庁跡を示す遺構は出てきませんでした。
現在では、総社神社の西側で、宮鍋神社周辺の広い地域の中に、的をしぼりつつあります。
推定国府跡地図
以下掲載の地図は、
地図中 A案 宅地や長谷川の地名が残る100m四方の区域
B案 蒼海城本丸を中心とした100m四方の区域
C案 宮鍋神社の南に広がる100m四方の区域
D案 古い地境の残る100m四方の区域
天慶2年(939)平将門の乱、上野国府を占領する。
天仁元年(1108)浅間山の噴火
治承4年(1180)足利俊綱、上野国府を焼き払う
その後、国府推定地地域内には蒼海城がつくられ、今でも堀や土塁の痕跡が残っている所はたくさんあります。
国府跡に造られたとされる蒼海城跡地図
群馬県古城塁址の研究(山崎一氏著)」より)
下の掲載写真は国庁跡と推定されている宮鍋神社(総社神社の前身)と神社境内に設置されている上野国府正庁推定復元図
宮鍋神社西方に鎮座する御霊神社の背後に残る蒼海城跡の土塁
鳥羽遺跡で発見された国府神社と国府関連の年表
以下掲載の写真及び表は、前橋市教育委員会文化財保護課発行の資料から出典