以下、文章は国府公民館 地域探訪資料より出典
国分寺が造られた頃の出来事
天平2年 (730) この年からひでり 、風雨の被害が続き、各地で飢餓や病気の蔓延。盗賊もおうこうする。
天平4年 (732) 山上憶良の『貧窮問答歌』
天平9年 (737) 天然痘が大流行し、政権の座にいた不比等の四人息子武智麻呂、房前、宇合、麻呂が相次いで亡くなる。
天平10年(738) 聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇太子がなくなり、女子の阿部親王が皇太子に。
(後には女帝・孝謙天皇に)
天平12年(740) 九州の太宰府に左遷させられていた宇合の息子の藤原広嗣ぐが朝廷に反旗を翻す。
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聖武天皇の願い→政治の混乱や社会不安の原因は天皇の人徳が浅く、役人の怠慢等・・・・。
これをただすために仏教の力が必要
そのために東大寺や全国に国分寺を建立し、天皇は都にあった昆慮舎那仏(東大寺大仏)拝し国務をとられ、
国司は国分寺の昆慮舎那仏分身である釈迦牟尼仏を拝し地方の行政に従事する。如来を安置する国分寺を
設けて仏教の教理の世界を実現を!!
天平13年(741)2月14日 聖武天皇の詔の骨子
□ いままでに、一丈六寸の釈迦牟尼仏を安置し、大般若経の書写や読経を行った。
そのために、天候にも恵まれ護国豊穣、十分な功徳があった。
お経には、事あるとき四天王が来て擁護してくれ、憂愁や疾病を取り除いてくれるとある。
□ 七重塔を建て、聖武天皇自らが書写した金文字の金光最勝王経を安置する。
□ 僧寺は金光明径四天王護国之寺と呼び、僧20名を置くこと。
尼寺は法華滅罪之寺とし、10名の尼寺を置くこと。
□ 仏を敬い信仰することによって永く国家を護ること。
□ 塔を造る寺は『国の華』になるのだから、必ず国中の『好き処』を選んで建てること。
【続日本書記には】
天平勝元(749)年5月15日碓氷郡の外従七位上の石部君諸弟が国分寺に知織物を献納して外従五位下を授けられる。
天平勝元年5月20日 勢多郡司で外従七位下の上毛野朝臣足人が国分寺に知織物を献納して外従五位下を授けられる。
【上野国交替実録帳には】
−長元3年(1030)頃の国分寺の現状−
□仏像は16体。丈六釈迦如来象や脇待、四天王像などは、破損あるが金堂に安置されている。
□築垣や南大門は、全壊したままで放置されている。
□僧坊は、すでに無い。
【発掘調査でわかったこと】
1.《創建期》 金堂→ 軒瓦は笠懸瓦窯周辺で生産 地名瓦には勢多郡、山田郡
※金堂の建造には勢多郡等の協力が大きく関与
塔→ 軒瓦は吉井・藤岡瓦窯で生産 地名瓦には勢多郡、佐位郡、山田郡
《修造期》 軒瓦→ 吉井・藤岡瓦窯で生産地名瓦→『多胡郡』、『山宇』、『辛科』、『織裳』
など多胡郡に関係するものが多い。
2.講堂は、その痕跡をとどめる箇所はほとんどない。
3.西南隅の築堤は変則的
4.『東院』と呼ばれる建物があった。
※一般的に国分僧寺の総本山は奈良県東大寺・尼寺は法華寺とされています。
軒丸瓦の移り変わり
以下掲載の年表は、上野国分寺ガイダンス施設 パンフレットより出典
当時の国分寺全景写真(現在、こくぶの橋が架かっている辺りと思われる?)
以下掲載の絵図は、上野国分寺ガイダンス施設の展示品より出典
上野国分寺想像図(左が僧寺・右側が尼寺)
今は、僧寺と尼寺の間には関越自動車があり僧寺と尼寺の中間地域は重要な場所なので高速道は
盛り上げ工法なく高架橋になっています。
国分僧寺
上記掲載の絵図は、県教育委員会文化財保護課資料より出典
上記掲載の絵図は、上野国分寺ガイダンス施設の展示品より出典
上野国分寺跡から稲含山方面を望む
南大門跡
将来的にはこの場所に南大門を復元建設予定です。
発掘された南大門基礎部
復元された築垣
以下文章と南大門と築垣の跡写真は現地の説明板り出典
この塀は、上野国分寺の伽藍を取り囲んでいた築塀の一部を、古代と同じ姿に再現したもので、築垣と言います。大きさや形は
、発掘調査の結果をもとに古記録などを参考にして、下幅1.8m・全体の高さは3.9m、2.4mごとに柱が立つようになっています。
本体は、古代と同じように土を固めて高く積み上げる版築という方法で復元してあります。柱と柱の間にせき板を渡し、その中に土を
15pの厚さに敷きつめ、それが約半分になるまで棒で突き固める工法です。こうした土の層を35段積み上げて造られています。
屋根は、発掘調査で出土した創建時期の瓦にならって、軒先には蓮華と唐草の文様を表し。行基葺きという形に仕上げてあります。
木材には、発掘調査で出土した塗料と同じベンガラ(酸化第二鉄)が塗ってあります。
講堂跡
平成24年(2012)から再開された第2期発掘調査によって、初めて中門と回廊が確認されました。さらには100年近くにわたって
金堂とされてきた建物(現在は講堂としている)の前面で本来の金堂が発見されたことにより、上野国分寺は塔と金堂が東西に列んで建つ
特徴的な伽藍配置であること分かってきました。
昭和52年頃撮影の金堂跡の写真1(現在は講堂と呼んでいる場所) 左側とほぼ同地点から整備後の講堂跡
昭和52年頃撮影の金堂跡の写真2(現在は講堂と呼んでいる) 左側のほぼ同地点から整備後の講堂跡
史跡整備後の講堂跡写真
七重の塔跡
国分寺には、国の平和と繁栄を祈るためのお経を納める七重塔が建立され、国分寺の象徴となっていました。
この塔の基壇(基礎の土壇)と礎石(柱の台石)の一部が、1200年以上の間この場所に残っていました。
この基壇は、一辺の長さ1.2mあって、周囲は榛名山出の安山岩の切石を組んで化粧されていました。礎石の間隔が3.6m
であることから、塔は初層の一辺が10.8mで、高さは約60mであったと推定されます。全国の国分寺の塔の中でも、
最大級のものです。
また基壇の中心にある礎石(心礎)の中央には円形の突起(出柄)、その他の礎石の上面には円形にならした柱座の痕跡が見られます。
これと発掘調査で判明したことに従がって、土の部分は版築で、化粧石は榛名山から石を用いて再現しました。
以下のモノクロ写真は昭和50年代の塔跡の様子(矢野敬一著 国府と国分寺の歴史より出 典)
昭和52年頃撮影の塔跡の写真(下) 左側の撮影場所とほほ同じ位置の整備後の塔跡
塔跡案内版に掲載の整備前の塔跡(下) 左側の撮影場所とほほ同じ位置の整備後の塔跡
塔跡、発掘時の様子(現地案内板より出典)
史跡整備後の塔礎石跡の写真
尼寺跡
国分尼寺は、高速道路を挟んで僧寺から東に約500m離れた位置に存在している。
以前は僧坊跡としていた場所が最近の発掘調査では尼坊跡と学説が変わってきています。
毎年、尼寺跡では発掘調査が行われてるので今後の成果に期待。
昭和50年代の国分尼寺跡から赤城山を望む(矢野敬一著 国府と国分寺の歴史より出典) 現在の尼寺跡石碑から赤城山方向を望む
昭和50年代の国分尼寺跡から榛名山を望む(矢野敬一著 国府と国分寺の歴史より出典) 現在の尼寺跡石碑から榛名山方向を望む
尼寺の現在の様子
以下図は高崎市教育委員会文化財保護課発行資料より出典
ガイダンス施設「上野国分寺館」
ガイダンス施設には発掘調査成果の紹介、1/20の大きで復元した七重塔の模型など展示しています。
また、解説ビデオなど映像資料あります。
開館時間 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで) 入場無料
閉館日 年末年始(12月29日〜1月3日)
問い合わせ先 群馬県教育委員会事務局文化財保護課 027−226−4684
ガイダンス施設 「上野国分寺館」 027−372−6767