天狗岩用水と秋元長朝

       以下、文章は国府公民館 地域探訪資料より出典

 

力田遺愛碑と総社地内を流れる天狗岩用水路

 慶長6年(1601)秋元長朝蒼海城主となる。長朝は領内の開発を念願したが、領地は利根川水面から
 10m以上も高い平坦な台地で水利が乏しい。そこで吉岡町漆原付近の利根川から取水する4mにも及ぶ
 水路工事に着手しました。

  領民の協力を得るため、協力者には3年間の年貢の免除や参加した人数に応じて新田の取水枠を決める
 こととしたため、大勢の領民の力が結集して、大工事が進んでいきました。ところが大岩につきあたり、
 先に掘り進むことが出来なくなってしまいました。
 途方にくれた長朝は総社神社に7日間の願をかけました。その願明けの日に、どこからともなく山伏風の男が現れて
 領民達に指図を始めました。
 『辺りの枯れ木など燃えるものを大岩のまわりに積むのだ』枯れ木が積み上がると男はそれに火ををつけました。
 火は大岩を包んで天高く燃え上がりました。やがて火が消えた時、山伏の姿も消えていました。
 そしてあれほどびくともしなかった大岩は水をかけると、みるみるうちに砕け、堀り割ることが出来るようになりました。
 領民達は、『さっきのお方は天狗様に間違いない!』と喜び合いました・・・用水完成後、いつとなく【天狗岩用水】
 と呼ぶようになりました。
 長朝は新田開発に力を尽くし、その後も農民のためにいろいろな援助を惜しみませんでした。

  やがて、秋元氏が甲斐の国谷村城主として移ったあとも、領民達は秋元氏を追暴してやみませんでした。
 秋元氏移封後の百年以上たった安永5年(1776)に、天狗岩用水の恩恵に俗した百姓たちが
 、自からの手で光巌寺境内に{力田遺愛碑}を建てました。
 力田とは精農に尽くしたという意味で、秋元氏に農民が感謝の意を表した碑です。あの時代に農民が領主の
 徳をたたえて碑を建てるなんてことは、珍しい事でした。

   

     ※ 高崎市東部を流れる滝川は、天狗岩用水の余水をもらって造られた人工の水路です。
        総社藩との交渉は、滝川村の江原源左衛門があたり、水路工事の指導者でもありました。
        江原源左衛門の墓地は滝の慈眼寺境内にあります。

 

   光厳寺

      光巌寺は総社藩主秋元氏の菩提寺で荘厳な本堂があり、境内に力田遺愛碑が鎮座する。
     寺の南側に宝塔山古墳が存在していて古墳の墳丘上に秋元氏歴代の墓が鎮座している。

 
光厳寺山門と本堂(本堂は文政3年築造)


庫裏と梵鐘

 


   光厳寺七十石塔(室町時代)             宝塔山古墳の墳丘上に鎮座する総社藩主秋元氏の墓