以下掲載の写真及び文章は、前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

    総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現利根川の左岸の前橋市総社町
  に南北4Kmに分布する古墳群です。

     総社古墳群の古墳編年については諸説があるが、南支群と北支群に分かれていて今回は
    遠見山古墳・王山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳の順に
    記載します。

                 

 

    

        上毛古墳綜覧総社町6号墳

         左側の掲載写真は前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

  長さ80mほどの前方後円墳で、墳丘は前方部が低く、埴輪破片が多く出土している。
  堀の土層の状態から6世紀初頭ごろの築造と推定される。
 後円部の中ほどは構築当時よりも削平され若干低くなっているが葺石が多く見受けられ、
 周囲に10〜20mの幅の堀が確認された。遠見山の名称は慶長9年(1604)総社城の築造の時、
 遠見のための櫓が設置されていたことから名付けられたと考えられる。

  
 

   

      

        
     上毛古墳綜覧総社町1号墳

    以下、古墳の現地に設置されている案内板より出典

  6世紀代に作られた前方後円墳。墳丘は多数の河原石で覆われており、特に後円部の基段上の墳丘は全て
 川原石で構成されている。「積石塚」と言われるもので全国的にも珍しいものである。
 主体部は、後円部に両袖型の横穴式石室が存在する。石室全長16.4m、玄室長4.40m羨道長12mあり、
 石室全長は県内最長の規模を有している。墳丘からは円筒埴輪及び太刀等の形象埴輪が出土しているが、
 石室はすでに盗掘を受けており、わずか歯2本、辻金具破片数個が出土している。
 群馬県の初期横穴式古墳の様相を知る上にも、更には古墳の構築法を知る上からも貴重である。

  ※、この古墳は帆立貝式前方後円墳に近く 前方部は後から付け足したという学説もある。

 

          現在の王山古墳の様子


古墳の葺石の状態と石室上部の石

 

       以下、発掘時の王山古墳の様子(前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典)

   

 

 

     

      上毛古墳綜覧総社町11号墳

     以下写真と説明文は前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

   総社二子山古墳は現状の墳丘全長で90mを越える大型の前方後円墳で、総社古墳群の中で
 も最大規模を誇ります。
 未調査のため墳丘の詳細な構造は不明ですが、二段築造で、墳丘斜面に葺石を葺き、墳丘全体に円筒埴輪
 が立てられていたとみられます。
  石室は後円部・前方部の2ヶ所に造られています。後円部石室は天井石が崩落しているものの、県内で最大級
 のものです。
 壁面は榛名山から噴出した角閃石安山岩を加工して巧みに積み上げています。前方部石室は、
 大ぶりな自然石を積み上げており、石室の規模も後円部よりも一回り小さな石室です。墳丘の形や石室の造り方などから、
 後円部石室→前方部石室の順で造られ、両石室とも6世紀後半に築かれたと考えられます。
  副葬品の様相は明らかではありませんが、前方部石室から勾玉や耳環、刀子、太刀、などが出土していることが
 知られています。
 特に、頭椎太刀は、原品の所在が不明ですが詳細な絵図が残されています。また、その形状や作りなど、
 高崎市観音山古墳出土の太刀と非常によくにています。

    ※その昔、明治時代の頃、この古墳は豊城入彦命の墓とされ稜墓として管理されていた時代もあった。
     そのためか墳丘上に豊城入彦命の石碑がある

 

                           豊城入彦命の名前を記した石塔が墳丘上に存在(右下の写真)

 

         総社二子山古墳の昔の全景写真

             下記掲載の写真は、上毛古墳綜覧 復刊版(原本は昭和13年出版)より出典

 

        下記掲載の写真は、群馬県史蹟名勝天然記念物調査報告 第1輯 復刊版(原本は昭和4年)より出典

    

             下の写真は昭和42年頃(群馬古墳総攬より出典)   下の写真は昭和52年頃に撮影、

 

       最近の総社二子山古墳の写真

 

前方部石室の写真

 

後円部石室は崩落していて柵で覆われている。昭和50年代は草木が無くて無理をすれば石室に入れた

 

       下記掲載の写真は、群馬県史蹟名勝天然記念物調査報告 第1輯 復刊版(原本は昭和4年)より出典

     

     

       上毛古墳綜覧総社町10号墳

            以下写真と説明文は前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

        愛宕山古墳は墳丘全長56mの方墳で、7世紀前半の築造と考えられます。
     これまでの前方後円墳が姿を消して方墳という四角い形状の古墳になります。墳丘部は未調査ですが
     二段築造で、墳丘斜面には葺石で飾られていたと考えられます。また、墳丘には埴輪は立てていなかった
     とみられます。
      石室は巨大な自然石を積み上げた石室で、羨道が土砂で埋まっているため、石室全体の規模は不明ですが
    玄室長で約7mを測る巨大な石室です。壁面の自然石も、部分的な加工が行われていると考えられ、石室を造る
    技術が進歩していることがわかります。また玄室の中央には、精巧な作りの凝灰岩製の刳抜式家型石棺が
    置かれています。刳抜式家型石棺は畿内でも有力者の古墳に採用される例が多く、東日本全体でも宝塔山古墳
    の家型石棺を含めてわずか数例を数えるのみです。
     

              下のモノクロ写真は、昭和50年代に撮影した愛宕山古墳

  

 

現在の愛宕山古墳全景写真(数10年前は周囲は桑園が多く古墳全体が見わたせた)

 

愛宕山古墳石室写真(下)、石室入り口は狭いが内部はかなり広く奥に精巧な作りの家型石棺が安置されている。

 

 

     

     上毛古墳綜覧総社町9号墳

       説明文は前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

    宝塔山古墳は墳丘全長66mの大型方墳で、7世紀半ばに造られたと考えられます。石室は墳丘の基壇上に造られ、
  南側に向けて開口しています。石室は羨道・前室・玄室からなり、それぞれに入り口には門柱状の施設が設けられています。
   石室は、前代の愛宕山古墳までの自然石を積みあげる石室の作り方から、きれい加工された切石を巧みに積み上げる
  「載石切組積」という手法が採用されています。更に、その上に漆喰を厚く塗って石室全体を白く平らに仕上げています。
  玄室の中央には輝石安山岩製の刳抜式家型石棺が置かれています。愛宕山古墳の家型石棺同様非常に精巧な作りの石棺で
  底面付近には装飾として格狭間が刳り込まれています。
   石室壁面の石材の精候の加工と、これを積み上げる技術、漆喰の使用など、畿内の有力者層の古墳に用いる技術
 そのままと言えます。
  また、石棺の脚部に彫り込まれた格狭間は、大阪府南河内郡太子町聖徳太子墓の棺台などに見られるものと同一の
 ものと考えられ、古墳の埋葬施設に、新しい文化である仏教文化の影響が及んだ結果と言えるでしょう。 

     宝塔山古墳全景南側より

        下の写真は昭和43年頃, 群馬古墳総覧より            下の写真は昭和52年頃に撮影

 

宝塔山古墳全景(北側より)

 

宝塔山古墳石室入り口(左側)羨道(右側)

 

宝塔山古墳家型石棺

 

仏教文化の影響を受けた格狭間(石棺下部の拡大写真)

 

 

           

               上毛古墳綜覧総社町8号墳

           説明文は前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典

          蛇穴山古墳は墳丘の一辺が44mの方墳で、7世紀後半の築造と考えられます。墳丘は二段築造で
      墳丘斜面には葺石で飾られていたと考えられます。墳丘の周囲には内堀が巡りその外側に貼る石を施した
      中堤を挟み、更にその外側に外周溝を巡らせて、二重の堀で墳丘を取り囲んでいました。
       石室は南側に向かって開き、石室前には川原石を敷いた前庭を持ちます、蛇穴山古墳それまでのような
      長い羨道を持たず、わずかに切石を敷いていたスペースからすぐに奥に玄室を配置しています。
     玄室入り口の天井部分は格狭間状の刳り込みが施されています。
      玄室は両側・天井石がそれぞれ一石の巨石で構成され、周囲を削って巧みに石材を組み合わせるなど、
     高度な石材加工技術が見られれます。宝塔山古墳同様に石室には漆喰が塗られており、石室全体を平滑
     に白く仕上げてています。玄室の奥壁付近には牛伏砂岩製の大きな切り石が置かれており、棺を安置する
     ための棺台と考えられます。      

      ※蛇穴山古墳は群馬県内では古墳時代最終期のものと言われ、石室の石材加工手法が山王廃寺の
       塔礎石の加工技術と似ていて蛇穴山古墳・宝塔山古墳は山王廃寺と距離的にも近いことから関連が指摘される。 

        蛇穴山古墳のすぐ西側に総社歴史資料館があり、地域の文化財展示がされている。   

        以下写真(下)前橋市教育委員会文化財保護課発行 東国の雄総社古墳から出典 

蛇穴山古墳全景

    下の写真は昭和27年頃、群馬古墳総覧より        下の写真は52年頃撮影

 

蛇穴山古墳全景

 

 

 

蛇穴山古墳石室入り口と玄室内部

 

 

    その他の総社地域の古墳


大小路山古墳・薬師塚古墳の位置

 

      1.もみじ山古墳 

    紅葉山古墳は、上毛古墳総覧・遺跡台帳・群馬県古墳総覧とも未記載ですが、
  古墳脇の案内版によると小古墳と記載があります。

        

   

   2. 大小路山古墳   上毛古墳綜覧総社町7号墳

     遠見山古墳から北西方向の用水路脇に存在する、径20mくらいの円墳で墳丘上には
   熊谷稲荷神社の社殿が鎮座している。

 

  3.薬師塚古墳   上毛古墳綜覧に総社町15号墳

   形状は円墳で墳丘が墓地として利用されている、南側に横穴式石室が開口していたと思われます、現在は石室上部
  の石が確認できますが、石室は埋没している。