総社神社と、その歴史的な背景

     以下、文章は国府公民館 地域探訪資料より出典

     古代人の生活の糧となる豊かな自然の恩恵は、すべて神からの恩恵と考えていた。天地山河草木等
   あらゆる物に霊性を認めていて、神霊の加護を信じていて祈願や感謝の誠を捧げ、祭祀を営んでいた
   (古事記に八十万神(やそろずのかみ)等)

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    地域社会の人々を守護する神が生まれ、氏族集団の守護神となる。氏族(族長)は神に選ばれ、神権を持ち、
   神を祭り氏族を統制。数多くの神々がそれぞれ地域に勢力を保っていた。

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       大化の改新・大宝律令・平安京

     大和朝廷による全国諸勢力が統合されいく、武力征服や地方有力勢力の祭祀権の献上大化の改新による
    中央集権国家の成立の過程で

                 
                ■皇祖神の祭祀権に、すべての人々を取り込み取り込みたい。
                ■地方の氏族神を、国家に取り込み、祭祀を充実させたい。

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  □官社制度に推進 天照大神を芳斉する伊勢神宮の設置。地方の有力氏神が、だんだんと官社制度に組み込まれいく
      

     官社には祈年祭に、中央政府から奉幣があった。その為に官社の名簿が作成されるようになり、それを神名帳と呼ぶ。

             延暦十五年(796)に山田郡賀茂神・美和神・那波郡の火雷神が官社に
             嘉祥 三年 (850)群馬郡の甲波宿禰神が官社に
              貞観  元年 (859 )那波郡の倭文神、官社に。

      国司の大切な役割 各氏族の崇敬を受けていた神々は国司の厚い信仰を受け、
       神拝(国司が任国に至って国内の神社を参拝すること)
      ・朔幣(国司が毎月朔日に幣物を国帳記載の神社に捧げること)の対象になっていた。


     平安時代の著名な神社は『延喜式』巻10神社10神名下の「延喜式神名帳」
    (官社は二八六社、祭神は三一三二座が記載されている。)
    に記載されている。これが式内社と呼ばれ、上野国では、十二社(大社三、小社九)であり、国司が祭る祈年の神に、
    大社系三両綿三両、小社系二両綿二両がわかたれていた。

     総社神社は平安時代末期に創建されていたらしい、本来、国司は郡ごとの神社に奉幣していたものだが、
    律令制の衰退とともに神社控えが勧請(幣物は分かつ時、郡ごとに幣物が並べられ、神名が読み上げられ、
    一郡終わるごとに郡司に渡されたこと。)のものに変わっていき、国内に散在する神社を一カ所に合祀すること
    になり、国内の神社名を連ねた神名帳を神体とするするようになった。
    これが『上野国神名帳』で五四九柱が祀られていた。『総社本上野国神名帳』 は弘治三年(1557)の書写で
    、原本からは永仁六年(1298)と貞和三年(1617)の『上野国神名帳』の前書きに、
    「総て五百四十九社を勧請するが故に、当社を総社大明神と号す」と記されている。
    上野国神名帳は総社本、貫前神社の一宮本・群書類縦本の三種があり、少し内容が異なっている。 

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     上野国では、特に貫前神・赤城神・伊香保神が力を増し、より多くの人々の崇敬をうけるようになる。

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               時代の趨勢により国司勢力の衰退

 

       吉野時代(南北朝時代)成立の説話集『神道集』によれば、

        一宮  抜鉾大明神   二宮  赤城大明神  三宮  伊香保大明神   四宮  宿禰大明神 

        五宮  若伊香保大明神  六宮  春名満行権現(榛名神) 七宮  宮沢宮小祝 (小祝神) 

        八宮  那波上宮火雷神   九宮  那波下宮少智大明神

    

        ※ 一宮、二宮の呼称が成立したのは、11世紀から12世紀にかけての頃か。

 

         現在の総社神社の写真

 

総社神社の裏門と根本が割けている御神木

 

境内に設置されている総社神社復元図と蒼海城地図

 

総社神社の前進と考えられる宮鍋神社(上野国府推定地とも考えられている)